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小堀流踏水術游泳教範頌*1布に就て
日露の風雲急を告ぐるの秋、東洋日の出新聞社長にして憂國の志士鈴木天眼師の創意にもとづ崎陽きよう 財界有力者の發起ほっき により官民の恊力を得て市民子弟の心身鍛錬の道塲として皇后島(俗稱ぞくしょう 鼠島)を選ひ瓊浦游泳協會(大正元年長崎游泳協會と改稱かいしょう )を創設せられてよりここ に四十年、予十一歳頃(北C事變ほくしんじへん 當時)新聞社は東濱町に り予の生家と一軒 きて隣りなりしため 始終天眼先生より可愛がられし關係上、明治三十六年當時鍛冶屋町なる東洋日の出新聞社に恊会の看板をかか けらるゝや率先入會して今日に及ぶ爾來じらい 四十年如一夢いちむのごとし 、本年本恊會創立四十週年記念式を擧行きょこう するにあた り、地球上の一大轉換期てんかんき際會さいかい す、世界地圖ちず如何いかいろど らるゝか?その 彩筆さいひつふる ふ國は果して何國なるや?大和民族の一大興隆こうりゅうその 發展は亞細亞あじあ の盟主としてまさに 又世界新秩序建設の巨頭として永遠無窮むきゅう の皇國緊喫*2の最大事なりと確信するものにしてその 方途ほうと 多岐なるもかなめ は皇國民の體力たいりょく 氣力および 精神力の搴ュをもっ て先とすなわち もっとも 普遍的にして効果的なる國防的武道游泳術(自由主義的體育たいいく 游泳は世界平和の秋はよろ しからん)の普及奬勵しょうれい の急を要するはげん たざるところ げん に文部省厚生省におい ても支那事變しなじへんかんが み軍部方面におい ては將來戰をおもんばかさかん に國民皆泳を唱導しょうどう せらるゝ所以ゆえんまた ここ にありとするも予をもっ てすれは の遅きをたん ずるものなり、後れたりといえど 不爲ふい より勝れり、恩師猿木宗那先生つと に明治三十二年『國民皆武人』なりとの立前たてまえ より游泳術團体だんたい 教育上の指南として本書をあら はされたるものにして世にこの 道に關する書籍鮮少せんしょう ならざるも本書のごと く簡にして要を得たるものはけだし まれ なりと信ず、しか るに今これ市井しせい に求むるもこれ を得ることかた し又かつ て予の所有せしものを謄寫とうしゃ して頌布はんぷ せしも不鮮明なりしのみならず原本行衛ゆくえ 不明となりぬ、此際このさい 如何いか にかしてこれ を指導者の方々にわか たんものと恩師の後嗣こうし 現學習院游泳教官猿木眞壽夫先生に予の意衷いちゅう申送もうしおく りしにただ 一冊猿木家にありし分を快く御貸與たいよ 下され其上そのうえ頌布はんぷ して差支さしつかえ なし』とのねんごろ なる玉翰ぎょっかん に接し予は雀躍じゃくやく 感激に へず直ちに常任理事志田順作氏並に事業主任山田要氏に相談し之を協會四十周年記念出版となし附録として協會教範教師心得、會員心得、教授課程、試驗課程、踏水術水書字句および 會歌を加へ現任教師諸士および 將來教師たるの士に頌布はんぷ することとなりぬ。庶幾こいねがわ くは教師諸士本教範を心讀しんどくもっ て雄々しく國民練成の第一線に立たれんことを

昭和十六年八月八日八郎嶽の雲峰を眺めつゝ

長崎游泳協会 主任師範 田中直治 識
 
*1・・・「頌」の字は「頒」の意味で使っていると思われる。
*2・・・「喫緊きっきん 」の誤植か。