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“オリンピック記念”有明海横断遠泳
昭和39年9月
片山 格
企画と歴史
 今年は10月11日 世紀のオリンピックと云われた東京大会が、はなばなしく開かれ大成功のうちに、24日その幕を閉じたが、之に先だち東京大会を記念して、聖火コースでもあった有明海を泳いで渡ろうと言う企画が、熊本踏水会で行われ、長崎游泳協会にもさそいが来た。私達協会もその趣旨、計画に全面的賛同し、熊本踏水会と共に、第三回有明海横断遠泳の挙を実施することになった。
 記録によると、第1回は大正三年八月熊本踏水会と相前後して企画し、潮流と日没のため到着予定地の熊本県長洲を目前にしながら失敗。
 次いで、大正五年八月、長崎だけで、第ニ回を決行し今度は熊本県長洲から、島原猛島海岸に至る間を見事に完泳し、この時初めて有明海横断の記録が樹立されている。この時の選手は12名(この中の―人、今村春吉師範が現在も元気であり、今回の遠泳にも医師及び監督として同行された。)

選手選考
 そこで7月(遠泳参加希望者、20〜30人集まれば)との事で申込み受付けたところ、意に反して48名の申込み、協会としては、困ってしまった。いわゆる経費及び諸々の都合で選手を少し減らしたい。
参加希望者の親の承諾書、及び中央保健所の健康診断書を提出させた。そして協会側は、保健所に、何とか長時間遠泳は無理だと病名でふり落しを頼んだが、全員異常なく通過してしまった。
 こうなったら練習だ!その練習の結果で人数を絞ろうとして、若手教師 (21オ)張切りクラスで練習計画が立てられた。

 午前中は筋内運動、午後はねずみ島5周等この練習は私にもきつかった。只のんびり泳ぐのだったらよいが、そう言うわけにはいかない。皆もきつかったらしい。私だけきつかったなら辞退するつもりでいたが。と言うのは、申込者48格中30才の私を除き、他は13才から21才まで、予定6時間と云う遠泳だけに、ほとんど10代の若武者ばかり、もっとも私個人としては、秋に結婚をひかえ、しかも50年振り協会の横断遠泳ではあるし、独身最後の花を飾ると言う事と自分の限界も知っていたかった。
 それはさておき、結局この練習でも、アゴを上げるものは出なかった。最後の手段として、練習出席日数により、少なかった者から、遠慮を願い、ついに選手を42名(内、女子9名)平均年令17.5才を決定した。

遠泳前日
 8月18日午後1時半 一行57名中42名は裁判所前を出発、途中市役所で、協会長でもある市長様の訓辞を受け、ただちに湯江に直行、3時ごろ湯江到着、熊本隊が到着する前に有明海で15分ばかりトレ―ニング、海は台風14号の余波で少々荒く、海水の味はねずみ島の海水よりからくなく、むしろあまかったと言ってよい位だった。しばらくして服装をととのえ、熊本隊を波止場へ出迎えに行く。ところが熊本隊は来ず、電話連絡により「熊本隊は沖まで来たけど荒波で選手の中に船酔いが出たため、中止して引きかえしたので、あしからず」との事。
 さあ、それから長崎側はどうするか。波はたしかに荒い。明日の天気はどうかもわからない。選手は皆「ここまで来て、引かえしたくない」と言う意見がつよく、女子2人が、やりたいけどこわいと意見があった。
 会議の結果、明朝5時に決着をつける。と言うことになり、天候次第になった。当夜はなかなかねつかれなかった。熊本の海上保安部は「暴風警報が出ているのに泳ぐのはもっての外」と言ったらしい。
 どうせ行かれないなら、さわいで遊んだがまし、と言う気分がわいたのか、皆、のそのそと床からはい出して来る。タ食のたべくらべをして8杯たべ、指つっこんで吐くものも出た。

遠泳当日
 19日午前5時40分起床6時朝食、タべの寝不足がたたり、あまり食欲がなかった。8時泳ぎ出しが荷物の整理で遅れ8時25分だった。台風は今朝までは来なかった。明日だろうか。波はかなり暴れている。出発に際して近くの中学校の鼓笛隊及び土地の人達に見送られ、皆張切って、荒海に向った。
 整然と列をみださず、湯江大の浜海岸をあとにして、もくもくと二列に並んで進む、只前につめよ、前につめよ!はなされるな!と自分に言いきかせ、只々泳ぐばかり、1時間半位で、あめ玉の配給がある。しばらく止り、立泳ぎで皆に配る。あまいものが何よりの元気づけである。配りおわると、又出発、あめ玉を口にくわえたまま、只進む。
 波が横から耳に打ちつけ、耳がつまってしまい水をとりたいが、おくれてはならず、足をつよくけると同時に、こめかみのあたりをつよく打つ。今度は呼吸のタイミングを失敗し息を吸ったとたん波に顔をたたかれてしまった。
 がぶりと飲む。あわてて息を吸った時に又ざぶん、ロをあけて伸び上ってしまう。もたもたしていると前にはなされてしまう。私は―番最後を泳いでいるから、あとに迷惑はかからないが、前の方が間をあかしたり、つめたりすると、うしろの方も、それに合わせて急いでつめねばならない。まるで、小学校の遠足みたいになってしまう。
 先頭はテクテク同じ様にあるいているが、後の方は、時々走らねばならぬ。遠泳では之を―番禁じているが、どうにも仕方のない事で、しゃべったり、気をぬいたりしているわけではなく、皆―生懸命に波と戦いながら泳いでいるのだ。
 潮の流れがとまったとみえ、昼食になった。皆、動力船の手すりに片手でつかまり、アンパンを食べる。片手でつかまっているのも楽ではない。
 荒波のため船と腰がガツンガツン。
 司令船より「おいしいか一」と言われて「おいしいで―ス」と答えはしたものの正直なところ、味は全々感じなかった。かすかに「アン」だけがおいしいだけで、無理にでもたべておかないと、と思い、―つはたべた。二つめはたべ出したものの、寒さと船につかまっている腕が抜けそうで、いやけがさしたところを波でさらわれてしまった。
 たべたければ大波であろうと、食いものをさらわれることはないのだが、手が下がってしまい、流されるのをだまって見ていた。
 もう3時間ばかり立っただろうか、まだ距離は半分も来ていないと見え、両県の景色をみると長崎県側の方がはっきり見える。能本県側はめざす長洲の浜どころか日標の山がかすかに見えるのみだ。
 又、もくもくと泳ぎ出した、「ヨ―イコラ」とかけ声をかける。しばらくして「ピッチを上げろ」の指令が山た。ひき潮をのりきるのだ。
 この潮に勝ち、うまくあげ潮にのる事が出来れば成功したも同然なのだ。
 ハッハ、クウクウ・・・皆の口から息が聞こえる。それを半ば聞きながら、私もえんりょなくに息か声かわからぬものが出る。まさに悲鳴をあげるなら、今だろう。しばらくすると目が痛み出した。潮水がかかるとキリキリし出す。多分充血して来たのだろう。
 小魚の群が来た。海面をピョンピョン飛びながら顔にぶつかる。口の中にも飛込まれたものもいた。目にぶつかれたら大へんだと目をつぶるよぅにして泳いだ。
 目の前に白々と、長洲の浜が見えて来た。名の通り非常に長い浜の様だ。「あと5キロ」と司令船から伝えられる。このころから、ものを言う元気者もなくなり、自分だけでせい一パイになった。前のものに遅れまい、遅れまいとするが、一寸気をぬくと離されてしまう。足に力を人れてけっているつもりが、だみ足になってしまい、只足を曲げ伸しているだけのようになってしまう。それから一時間位たったろうか、司令船より「あと5,000メ―トル」と知らされる。馬鹿にスンナ、無精に腹が立った。(あとでわかったが、潮流で1時間位全然進んでいなかったらしく、只、後へ流されなかっただけであった。)
 煙突が身近に見えた。黒煙がうれしい。やっと熊本へ着いた。と思ったのもつかの間、これは熊本の巡視船が、やって来たのだった。何も考えないで泳ぐことだ、只泳ぐだけだ。ふと気づくと、今まで二列に整然と並んでいた列がみだれ出していた。右側がニケ所か三ケ所切れていた。間を離されると、それをつめるには余ほどの力がいる。絶対に前から離れてはぃけないのだ。前の者にのりかかる様にしておれば足はさほどけらなくても、まわりの水が―緒に運んでくれるが、逆に、足もとまで離されると、前のものがけった水圧で後にもどされてしまう。ここまで来て失敗に終ったのでは泣くにも泣けない。左側の列は右に寄ってやる。右側も必死だ。おもいおもいにさっと要領よく左側の列にもぐり込む、二列が一列になったが、隊はそのまま進んだ。
 めざす長洲の浜にやっと全員が辿り着いた。5時35分、予定6時間の遠休が3時間も越え、延々9時間の遠泳であった。

 長洲に上陸出来た時はホッとしたような、ボーッとした感じで、出迎えの土地の人達と成功に導いて下さった湯江町め護衛船の方々をも、合わせて忘れる事は出来ない。

以上