長崎游泳協会100年の歴史を彩ったユニークな先人達のエピソードです。

思案橋事件 西郷四郎総監督
游ぎだしたら止まらない 田中直治師範
臨時中隊長 石橋三郎師範
先生はどのくらい泳げるんですか? 田中直一師範
長崎は今日も雨だった 吉田孝穂師範

 思案橋事件 【西郷四郎総監督】
 丸山でひとしきり飲んだ帰りの西郷監督、ほろ酔い気分で思案橋にさしかかったところ、何やら人だかりが出来ていた。西郷監督が背伸びをして(西郷監督は背が低かった)覗くと、一人の人力車夫が七人の外国人水夫に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けているではないか。見かねた西郷監督は野次馬をかき分け人力車夫を助け出した。すると、外国人水夫達は怒りの矛先を西郷監督に向け、一斉に襲いかかってきたのである。しかし、相手が悪かった。体が大きいだけの外国人水夫など、講道館四天王といわれた西郷監督の敵ではない。たちどころに全員が川に放り込まれてしまった。西郷監督は袴をはたくと涼しい顔で立ち去ったそうである。
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 游ぎ出したら止まらない 【田中直治師範】
 協会の父と言われる田中直治先生。猿木宗那先生のもとに住み込んで稽古を積んだというだけあって、泳ぎは相当達者であったそうですが、とにかく泳ぐのがお好きだったようで、世間では「のぼせもん」と言われるような逸話が残っております。

 1909年(明治42年)大村の臼島游泳場の開場式に招かれた際、田中先生が初段十名ほどを引率して出かけられたそうです。線路沿いに歩いて行ったというのも驚きですが(昔の人は健脚ですね)、道の途中で川を見かけると、とりあえず水に入って浮き身の練習をして、また歩き出したそうです。長与の川では越中褌で泳ぎ、乾かす間が惜しいので背中にかけて褌を風にたなびかせながら長与の峠を越えたそうです。袴の下は何もなし、ノーパンならぬノーフンだったのでしょうか。

 ある年の正月のこと、田中直治先生、熊井定男先生、片岡次郎先生、田中直一先生の四人で鳴滝の遠矢三次師範のお宅を訪問されたそうです。寒い年で、庭の池には氷がはっていたのですが、話が游ぎのことになると「では、さっそく」ということになり、池の氷を割って池に入り浮き身の研究をしたそうです。

 熊本の先師祭に招かれて田中先生以下十二名が参加した時のことです。この年の先師祭は球磨川(人吉と思われます)が会場だったそうですが、先師祭からの帰途、球磨川を下り三角に着いたのが夜の10時頃だったのですが、田中先生は「島原まで泳ごう」と言われ、船頭を叩き起こし、酒代をはずんで船を出させました。出発したのは11時頃。月のない真っ暗な夜だったそうです。到着したのは朝7時を過ぎていたそうですから、かれこれ8時間の遠泳でした。

※闇夜の遠泳などもってのほかですが、遠泳でなくても夜の海は危険です。ダツに襲われることもあります。決して真似しないでください。

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 臨時中隊長 【石橋三郎師範】
 石橋三郎先生は、游ぎと関係ない所でも色々と伝説を残しています。「高校3年間手ぶらで通学した」とか「靴の紐を結んだことがなかった」とか・・・どちらも子分にやらせていたそうです。

 さて、その石橋三郎先生ですが、戦争中は召集されて南方に物資を運ぶ輸送船に乗っていました。石橋先生の乗った輸送船は何と七度も撃沈され、そのたびに死線をかいくぐり生還したといいます。しかも、船が撃沈され総員退鑑となる際「石橋、お前が中隊長として指揮をとれ」との命令を受け、海中でのみ中隊長として漂流する部隊を指揮したそうです。小堀流踏水術が自他を守る術であることを端的に示す逸話です。

 それにしても、南方では多数の兵士が餓死されたそうですから、石橋先生の乗った船が無事に目的地まで着いていればどれだけの人名が救われただろうか、と考えると残念でなりません。

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 先生はどのくらい泳げるんですか? 【田中直一師範】
 創立85周年の大名行列の時のことです。この日はNBCテレビが取材に来ていました。テレビのレポーターの女性が主任師範である田中直一先生に色々と話を聞いていました。以下、レポーターと直一先生の会話です。

レポーター:「先生はどのくらい泳げるんですか?」
直一先生:「あなたはどのくらい歩けますか?」
レポーター:「いやあ、ちょっとわかりません。」
直一先生:「そうでしょう、私もどのくらい泳げるかわかりません。」

「どのくらい泳げるか?」これは結構返答に困る質問なのですが、直一先生はさすがですね。「わかりません」と答えるのは簡単ですが、それだけでは「やっぱり、おじいちゃん先生だからな」などと誤解を招きかねません。どうして「わからない」のかを相手に実感をもって理解させる実に的確な返答をされたのです。

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 長崎は今日も雨だった 【吉田孝穂師範】
 「長崎は今日も雨だった」「西海ブルース」内山田洋とクール・ファイブ(現在は前川清&クールファイブとして活動中)のデビュー曲であり代表曲の作詞者は、ペンネーム永田貴子(たかし)こと、当協会副理事長吉田孝穂師範であった。
 1969年(昭和44年)当時、クラブ銀馬車の専属バンド「クールファイブ」とメンバーソロ歌手前川清のために作詞、全国的にヒットし、「長崎は今日も雨だった」は長崎を、「西海ブルース」は佐世保西海国立公園を全国にアピールし、今なお両曲とも前川清氏の代表作として、また全国のカラオケで歌い継がれる名曲である。
 吉田師範は小学校低学年からねずみ島に通い、先輩から鍛えられ、プール移設後も子供たちに愛情を持って指導されることは我々同志と同様であった。ただ、特筆すべきは作詞者としての吉田師範と共に協会の吉田孝穂師範の足跡と功績は多大であった。
 特にプール移設後の田中直一・唐津勝彦・日高正史主任師範時代の委託管理・指定管理・NPO法人取得に際しての協会が抱えた重大難題問題解決に目に見えない場面場面での折衝交渉に持ち前の明るさと毅然とした信念、多彩な人脈で対応解決された実績と事実は記憶されるべきである。
 吉田師範は協会、遠泳や寒中水泳、大名行列等の協会行事の裏方としてきめ細かく対応され、同伴船の手配、漁協との折衝、桟敷の手配、海上保安庁との折衝等、本当にフットワークを駆使して頂き、そのマニュアルは没後の今日では貴重な行事運営バイブルとして活用されている。対マスコミへのスポークスマンとしての顔、協会への愛情の発露としての裏方としての緻密な準備と行動力あふれる顔は協会でも特異な存在であった。
 ペーロン、ハタ揚げ、龍踊りなど長崎観光の牽引役としてのご活躍は、長崎観光への貢献として顕彰されていることも、吉田師範を語るとき忘れてはならない。協会同志としても誉れである。
 2007年(平成19年11月11日)ご逝去、13日カトリック浦上協会でご葬儀。祭壇から霊柩車移動の折りに「長崎は今日も雨だった」が流されるという浦上教会異例の葬儀であった。信仰においても吉田師範ならではの熱意と実績をうかがうことができた。忌明けには未亡人のり子様より故吉田孝穂名にて多額のご芳志を協会に恵贈いただいた。協会人として、作詞者として、観光仕掛け人として、商船人として、敬虔なクリスチャンとして、いろいろな顔を持つ、そして全てに一生懸命だった吉田孝穂師範は協会教師の特異な存在として伝承すべきであろう。
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