長崎游泳協会の想い出
吉田斐子(旧姓上田、昭和11年初段)
 鼠島は なつかしい 心のふるさとです。

啄木の うたをまねて
 かにかくに 長崎の空 恋しかり
   想い出の"鼠島" 思い出のひと

 夏が近くなると、こんなお便りが舞いこむ位、島育ちの私共には忘れられない懐かしいねずみ島でした。
 もう、六十年はすぎましたが、初段試験(昭和十―年)を受けた頃の稽古はきびしく、背が高く、鼻のお高い、堤一仁先生から、鍛えられました。
 お優しかった今は亡き上田寿人先生(戦死)、米粒に小さく綺麗な字を書かれる(故)中島先生、おきれいな(故)近藤康子先生方に御指導をうけ、その頃のお姿も、昨日の様に思い出されます。
 小学校六年の時、甲組だった私は、三階のやぐらからの逆飛びが、高すぎるので、こわく二階から飛び込む時も、胸がどきどきして、さかさまに落ちてゆく と言うところでしたので、崎陽丸が、"もうすぐ出るぞー"と、汽笛を鳴らすのに、私は悲しくて、三階のてすりにしがみつき、涙を流し、南方で戦死された三島茂先生が心配され、一人残して帰るわけにもゆかず、海には人っ気なく、とうとうつき落として下さった苦しい思い出も、懐かしく思い出されます。
 発砲練習は、旧式の火縄銃でさびていて重く 水につけない様、頑張ったものです。
 小瀬戸迄、早抜で泳がせられ、男子部が驚いていましたが、中間の浅瀬で足をついて歩いて、叱られた様でした。
 昭和十一年、中学一年で初段にあがりましたが、皆、よく走りまわり、手伝ってくれると、可愛がられました。
 おしゃべりに花を咲かせていると、きまって前師範田中直治先生が、「ちん鉄砲」を手に、咳ばらいしながら通り過ぎられ、その度に、肩をすくめて、顔を見あわせました。
 大事な娘さんを預かっているので、時々様子を見にいらっしゃるのだそうです。
 先生の胸の特製の"金"の笛は、戦時中、供出されたそうです。
 事務所から、望遠鏡で、私共の勤務ぶりを眺めていると、よく口が動いてると、笑っておっしゃるので、顔を赤くしたものです。
 暑くとも、砂浜は、はだし。タオルを肩にかける事も許されず、夜は歯ばかり白いと、笑われる位、元気にまっ黒にやけました。
 その頃は、先生方も多く、初段も人数が多かったので、忙しい私共と違い、男子の何人かが、子供達のお稽古がすんだ後、見張りをさぼり、櫓をこぐ練習のつもりだったのですが、(女子部も櫓をこぐ練習を甲組で習いました。)こっそり小舟をこいで、近くの高鉾に貝とりに出かけた事がばれ、その頃の、おえら方(師範)は、私共の目から、えらくてこわい方ばかりでしたが、「今年の初段は、けしからぬ。子供の見張りもせぬ連中を助手にするわけにはゆかぬ。もう一年 初段で鍛えてやる。女子には、本当に気の毒だけど、幸い年も若いし、もう一年、頑張る様にと、言うことになりました。
 楽しい思い出は、だんべ船のま下を、端から端まで、息をつめてもぐって遊んだり、時折、向うに見える小瀬戸迄、泳いで渡り、暖かいまんじゅうを頭にのせて泳いで帰ったこと。
 又、島の山の上にある売店に、時間ぎりぎりにかけあがり、熱いぜんざいを食べたり、ゆがいたじゃが芋に塩をつけて食べてると、汽笛が聞え、あわてて、一気に駆けおりて、船にとび乗ったものです。(崎陽丸は、だんべ船を三隻、全員を一杯のせて走っていました)
 県庁下に、元崎豆やがあり、此所を通る殆んどの人が、炒りたてのはじき豆を買い、行きも帰りも船の中でも、手に握り、分けあい、大波止に着く迄、たのしいおしゃべりをし、時々、どこからか、豆のつぶてがとんできたり、そんな思い出一杯のだんべ船でした。
 私は兄と一緒でしたが、安政生れの祖母は鼠島では、私が誰方とも気安く話すものですから、男女交際のやかましい時代の、おつき人!?で、毎日、ついてきてくれました。役員になり、兄と―緒なのでと、断ると、一人で泳げる様になったと思ってと云いながら、何時もついてきては、着物のままじっと座っていて、故山中彰先生のお母様や、櫻庭さんの故お母様と静かに話しては、時間を過ごしていた様です。
 深堀遠泳の時は、家族がふた手にわかれ、深堀に父母、鼠島に泳ぎ着くと、手をふって喜ぶにこにこの祖母の顔が待っていました。
 あの頃は、皆、家族ぐるみの応援でした。
 先輩の故中川好江先生・故櫻庭多喜子さんと私が、よく先頭を泳がされました。
 長崎商業の方の吹かれるラッバの音、船頭さんは、ギッチラギッチラと、かいをこがれ、その音を耳にしながら、楽しく泳ぎました。私は、深堀遠泳十回、戦後、福田遠泳一回、其の後、網場二回、最近は舟の上の見張り役です。
 戦前は五人の吹かれるラッパの音にあわせ、毎朝国旗掲揚があり、ラッパの音と共に、陸にあがったり、泳いだりもしました。
 私の主人も長崎生れで、鼠島に通ったそうで、小さい時から、用心深く、道具をとられては大変と、わざわざ山の上にこっそり置き分からない様にしてるのに弁当を抜かれ、おかしいと思い、場所を変えてたけど、泳いでる間にとられているのに気づかぬ程、幼かったと、子供達に、鼠島の思い出を笑いながら話していました。
 役員になって、お稽古も終り、子ども達が全員あがってしまった後、暫く私達の自由時間が少しありました。海に浮いた電信柱が何本かつないであり、皆で並んで、鼠島の歌や童謡をうたいました。そして、  "真白き冨士の嶺、みどりの江ノ島" とか "黒髪長く夢多き、乙女と生れ涙あり" など、声をあわせて合唱し、ロマンチックになりました。皆、仲がよくて、平和な時代でした。
 時局もいよいよ切迫、入営、召集、徴用と役員が少なくなり、若輩の私が、(昭和十七年)甲組三班を委せられましたが、余り責任が重いので、男女合併をお願いし、戦死された渡辺直―先生に教えて頂きながら、お手伝いしました。(昭和十七年、十八年と、三菱兵器挺身隊の徴用を田中先生が断って下さいました)
 その時の甲組三班に、師範石橋先生(新地のかまぼこ店)の奥様、(唐津)京子さんがいられました。
 その以前(昭和十五年八月ニ五日)、京子ちゃんは、大名行列の、かわいい姫君で、その頃は、行列の間、輿にものらず、腰元と―緒に、泳がなければなりませんでした。髪飾りを、私共に委せられ、本古川町はりま屋さんに、大勢で買いに行った、たのしい思い出があります。
(先頭、長刀、故奥平、上田 傘、故中川班長、 太刀、辻美智子 長刀、故桜庭、田中園代)

大名行列の日の母の日記に、次の様な筆あとがありました。

○雲助の歌声 波間に絶えだえに
    昔 なつかし 殿のみこしよ。

○雲助は 御輿かつぎて水しぶき
    背の入れ墨に 踊る鯛かも  (石橋師範の御父上の見事な筆跡)

○御輿をば かけ声もろとも雲助は
    波間に運べば 嘆声の 湧く

○おっき人 日傘の花の ゆらゆらと
    行列なしつゝ 夢の国 ゆく

○立ち休ぎ 御前泳ぎに 水練と
    それぞれ競う 小堀流かな

○御輿さゝげ、水しぶきあげ渡るなり
    強者の歌、雄々しく ひゞくも

○立泳ぎ なしつゝ瓜の皮むきて
    高く放てば 舞う あざやかさ

○次々と 黄色き らせんの皮は舞い
    他所に 見られぬ 特技の 一つよ
    立 泳 ぎ

○遠くよりは 只 立つ如く見ゆれども
    足に たゆまぬ 心 注ぐも。

 昭和十八年、戦争もはげしくなり、翌年から、―時、閉鎖になりました。

 私共の初段試験は前日のあらしで、船も出ず、純心高校裏の浦上川で試験があり、欠席が多かったので、翌日ねずみ島で、して頂きました。