長崎游泳協会は明治35年、ねずみ島に誕生して90年。ねずみ島時代70年。市民総合プール時代20年。時代は変わっても協会の創立精神は今もなお受け継がれています。この間、関係者無欲の奉仕とたゆまない努力とによって幾多の難関を乗り越え今日に至りました。今日は、諸先生方に出席いただき、ねずみ島から現在までの思い出を大いに語っていただきました。 |
出席者 | ||
井上寿恵男(元市教育長) | ||
舛谷晴雄(元市教委・体育保健課長) | ||
山田要(元市港湾課長) | ||
田中直一(副会長・主任師範) | ||
熊井定男(相談役・師範) | ||
唐津勝彦(理事長・師範) | ||
司会:吉田孝穂(理事・教士) |
吉田 本日は、皆様にはお忙しいところご出席いただきまして有難うございます。長崎游泳協会が明治35年に産声をあげまして今年で90周年を迎えます。創立当時、長崎市民の心身錬成と体育の向上を目的として、ねずみ島を道場に明治、大正。昭和と二代三代にわって70年間続いてきたわけですが、昭和47年9月3日を最後に閉鎖きれました。この間、20数万人の長崎の子供達を「ねずみ島ッ子」として育ててきたわけです。
今日は、古きよき時代のねずみ島の思い出を中心に、閉鎖当時の教育長さんをはじめ、ねずみ島に関わりのある御三方を交えながら当時の苦労話などお聞かせ願いたいと思います。
熊井 そうそう、私達はその木札の若番をもらうのが誇りでしてね。先を争って若い番号の札を買いにいったものですよ。それが自慢でしたね。田中さんが1番のときは私が2番とかね。「おいたちはねずみ島の正会員ぞ!」って見せびらかしてましたよ。
―同 (笑い)
吉田 いわば、木札はねずみ島に行く子供達にとっては勲章みたいなものだったんですね。
―同 (そうそう)
田中 それから、当時はペ―ロンもやっておりまして、福田の方や神の島の方まで遠征しておりました。これも楽しかったですね。
熊井 昔は、昇級試験の時、泳ぎだけでなくて舟の漕ぎ方(漕艇法)も教科にいれてたんですよ。
吉田 そうなんですか。
田中 それと潜りの練習ですね。“さざえ”とか “あわび”なんかを取ったりしていましたよ。高鉾島とか中の島、それに四郎ヶ島あたりまで行っていましたね。 しかし、ねずみ島の訓練は本当にきつかった。休憩時間と練習時間は特に厳格に守られてましたね。教師のすきを見て海に人ろうとすると、どこから見ていたのか 「ピッピ―ッ」と笛を鳴らされて叱られたものでした。でもこれが游泳協会の無事故につながっていることなんですよね。
唐津 特に忘れられないのが、当時小瀬戸にまんじゅう屋があったんですが、その頃はまだ小瀬戸と神の島は離れておりまして、訓練の合間に先輩から「まんじゅば買うてこい」と言われて水に濡れないように、頭の上にまんじゅうを乗せて、小瀬戸から泳いで買ってきたものですよ。逆らったらひどく怒られるもんでずから、僕らは必死で泳いだものですよ。
田中 当時は、上下の関係がきびしかったですね。
吉田 とにかくその頃は夢があったんですね。そこで団平船といえば崎陽丸が日の丸號、朝日號を両脇に横だきにして大波止からねずみ島までの、のどかな船旅は、長崎の夏の風物詩として親しまれてきましたが、戦前も戦後も海上保安部の取締りが、あまり厳しくなかったようで、いつも船はあふれんばかり定員オーバーで乗りっぱなしだったですね。
山田 そうです。海の上ということで危険が伴いますが。何千人という人達を―度にばなければ指導出来ないということで頭を悩まされました。
当時、崎陽丸で4隻の団平船を横だきにして航行したもんですから長崎―上海航路の、上海丸・長崎丸が港内に入るとき、衝突事故にならないように速力を落してもらった事もあったんですよ。
―同 (そうなんですか。)
田中 あの崎陽丸はかなり煙突が長いうえ大きかった姿は忘れられませんが、当時は長崎港で―番の力持ちでしたようですね、山田さん…。だけど片道、50分くらいかかってましたよ。
吉田 特に大名行列を行う日には、長崎市民が―挙に島に押し寄せて、2万人くらいですかね?よく賑わいました。それに足の踏み場も無かった程で、ねずみ島が沈没するのではないかと言ってましたよ。
一同 (笑い)
唐津 ねずみ島の大名行列は、ぺ―ロン大会と並んで長崎の夏の名物だったですね。
熊井 それからねずみ島が干潮の時、貝殻で足を切った子供達が列をなして治療を受けたこともありましたね。今の時代であんなことがあったら大問題でしょうね。
一同 (笑う)
田中 長崎の基幹産業である造船業が世界的な規模になって発展するということは、市民として大変うれしい面はありますが、深堀と香焼島との埋め立てが始まって、ねずみ島の水の透明度が落ちてまいりまして水の状態を心配したものです。70年間ねずみ島で育ってきた私共といたしましては、断腸の思いで別れざるをえなかったんです。
田中 その当時は色々苦労いたしましたが、皆さんのご尽力のおかげで今日に至っております。
田中 今の夏期水泳教室ですが、当初市教委では1000名程度で始めたらとの考えでしたが、ねずみ島では約3000名の子供を毎日指導していたので、プールの面積、つまり広さがあれば協会としては、3000名でもよいですと申し上げたのでした。ところが、驚いたことに申し込みが6000名以上もあり、検討した結果、一人の子供でもたくさん教室に入れてあげたいとのことで、抽選によってA班、B班に分け、隔日制で指導することになったのでした。プールは、今でも狭いことに変りはないのですが・・・。
吉田 水泳指導のあり方がプールに移ってから随分変ってきたようですが。
田中 ねずみ島時代には、第一に水泳を指導する前に子供達の保護ですね。子供達の安全を守るために相当の労力を使いました。プールの場合は海よりも比較的安全性が高いということで、子供を保護するという意味では、その点随分楽になりましたね。
唐津 ねずみ島では弁当を持ってきて、子供達は―日中泳いでました。だから自然に泳ぎを身に付けていったといえるでしょうね。プールでは限られた時間を有効に使って、いかに指導するかというのが大変ですね。それと日本泳法の小堀流だけでなく文部省の標準泳法も取り入れたということですね。それとねずみ島時代もそうだったわけですが、体み時間と練習時間が非常に厳格に守られていて、これが無事故につながっていると思いますよ。
田中 現在の施設での指導を踏まえながら。海での訓練も行っていきたいと思います。そこで海の道場も持ちたいと思っております。
現在、千々石海永浴場から小浜町までの8キロを小中学生に泳がぜる「橘湾遠泳」を毎年行っているんですが、遠泳は精神的に子供を成長させますね。なぜなら、自分は出来ないんじゃないかと誰しも最初は思うわけですが、―端泳ぎきるとそれが白分自身に「やればできるんだ」といぅ大きな自信を持つことが出来るということですね。
舛谷 そう、それが子供にとっては、かけがえのないもになるんですよね。
唐津 それと、現在の若い指導者の先生方も海に慣れていないということで、まず指導者を育成することも大切な事ですね。塩の味を憶えるとでもいいましょうか・・・。丁組丙組はまずプールで、乙組以上は海での訓練をおこなっていきたいと思います。
井上 そう、それと現在の体育は選手だけのための競技になでている。勝ち負けも大切だけれども、全員が参加出来るものが本当の意味でのスポーツではないでしょうか。最近は少年の非行が特に問題になっていますが、ねずみ島のような指導が大きな役割を果たすのではないかと私は思います。
熊井 そうですね。学校の教育とは別に、子供達を逞しい子に育てる為にも游泳協会は独自の伝統を生かして、今後も導いたほうがよいのではないでしょうか。
吉田 私達は、使命とはいえ、これからも小堀流の游泳指導を忠実に守り通して、後世に受け継がなければならないという責任をあらためて痛感いたしました。語り尽くせませんが、この辺で座談会を終らせて頂きたいと思います。本日はお忙しい中、誠に有難うございました。