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※この対談は1992年(平成4年)7月13日におこなわれました。
 長崎游泳協会は明治35年、ねずみ島に誕生して90年。ねずみ島時代70年。市民総合プール時代20年。時代は変わっても協会の創立精神は今もなお受け継がれています。この間、関係者無欲の奉仕とたゆまない努力とによって幾多の難関を乗り越え今日に至りました。今日は、諸先生方に出席いただき、ねずみ島から現在までの思い出を大いに語っていただきました。 

出席者
 井上寿恵男(元市教育長) 舛谷晴雄(元市教委・体育保健課長)
 山田要(元市港湾課長) 田中直一(副会長・主任師範)
 熊井定男(相談役・師範) 唐津勝彦(理事長・師範)
司会:吉田孝穂(理事・教士)

吉田 本日は、皆様にはお忙しいところご出席いただきまして有難うございます。長崎游泳協会が明治35年に産声をあげまして今年で90周年を迎えます。創立当時、長崎市民の心身錬成と体育の向上を目的として、ねずみ島を道場に明治、大正。昭和と二代三代にわって70年間続いてきたわけですが、昭和47年9月3日を最後に閉鎖きれました。この間、20数万人の長崎の子供達を「ねずみ島ッ子」として育ててきたわけです。
今日は、古きよき時代のねずみ島の思い出を中心に、閉鎖当時の教育長さんをはじめ、ねずみ島に関わりのある御三方を交えながら当時の苦労話などお聞かせ願いたいと思います。

 ねずみ島の思い出
吉田 それでは、ねずみ島時代の楽しかった思い出など、まず田中先生からお聞かせ下さい。


田中直一
田中 私達の小さい頃のねずみ島というのは本当に水もきれいでした。水が循環していてまさに天が与えたもうた道場だったということです。私達は小さい頃からねずみ島で育ったわけですが、ねずみ島といえばやっぱり長崎游泳協会員の焼印が押してある正会員の木札であり、首からぶら下げて通ったことですね。

熊井 そうそう、私達はその木札の若番をもらうのが誇りでしてね。先を争って若い番号の札を買いにいったものですよ。それが自慢でしたね。田中さんが1番のときは私が2番とかね。「おいたちはねずみ島の正会員ぞ!」って見せびらかしてましたよ。

―同 (笑い)

吉田 いわば、木札はねずみ島に行く子供達にとっては勲章みたいなものだったんですね。

―同  (そうそう)

田中 それから、当時はペ―ロンもやっておりまして、福田の方や神の島の方まで遠征しておりました。これも楽しかったですね。

熊井 昔は、昇級試験の時、泳ぎだけでなくて舟の漕ぎ方(漕艇法)も教科にいれてたんですよ。

吉田 そうなんですか。

田中  それと潜りの練習ですね。“さざえ”とか “あわび”なんかを取ったりしていましたよ。高鉾島とか中の島、それに四郎ヶ島あたりまで行っていましたね。 しかし、ねずみ島の訓練は本当にきつかった。休憩時間と練習時間は特に厳格に守られてましたね。教師のすきを見て海に人ろうとすると、どこから見ていたのか 「ピッピ―ッ」と笛を鳴らされて叱られたものでした。でもこれが游泳協会の無事故につながっていることなんですよね。

唐津 特に忘れられないのが、当時小瀬戸にまんじゅう屋があったんですが、その頃はまだ小瀬戸と神の島は離れておりまして、訓練の合間に先輩から「まんじゅば買うてこい」と言われて水に濡れないように、頭の上にまんじゅうを乗せて、小瀬戸から泳いで買ってきたものですよ。逆らったらひどく怒られるもんでずから、僕らは必死で泳いだものですよ。

田中 当時は、上下の関係がきびしかったですね。


熊井定男
熊井 「ねずみ島ッ子」の楽しみと言えば、―つに島に行く時「はじき豆」を入れた小さな布袋を大波止から団平船の横にぶら下げ、海水につけるんです。すると、ねずみ島に船が着く頃には、豆がほとびて塩がよく利いていて、格別な豆の味がしてうまかったですなあ。 それと、大波止にラムネや飴湯、それに氷饅頭が確か―銭で売ってましてね、帰りにはハラベコの子供達は我れ先に行って買い食いしていたものです。

吉田 とにかくその頃は夢があったんですね。そこで団平船といえば崎陽丸が日の丸號、朝日號を両脇に横だきにして大波止からねずみ島までの、のどかな船旅は、長崎の夏の風物詩として親しまれてきましたが、戦前も戦後も海上保安部の取締りが、あまり厳しくなかったようで、いつも船はあふれんばかり定員オーバーで乗りっぱなしだったですね。

山田 そうです。海の上ということで危険が伴いますが。何千人という人達を―度にばなければ指導出来ないということで頭を悩まされました。
 当時、崎陽丸で4隻の団平船を横だきにして航行したもんですから長崎―上海航路の、上海丸・長崎丸が港内に入るとき、衝突事故にならないように速力を落してもらった事もあったんですよ。

―同 (そうなんですか。)

田中 あの崎陽丸はかなり煙突が長いうえ大きかった姿は忘れられませんが、当時は長崎港で―番の力持ちでしたようですね、山田さん…。だけど片道、50分くらいかかってましたよ。

吉田 特に大名行列を行う日には、長崎市民が―挙に島に押し寄せて、2万人くらいですかね?よく賑わいました。それに足の踏み場も無かった程で、ねずみ島が沈没するのではないかと言ってましたよ。

一同 (笑い)

唐津 ねずみ島の大名行列は、ぺ―ロン大会と並んで長崎の夏の名物だったですね。

熊井 それからねずみ島が干潮の時、貝殻で足を切った子供達が列をなして治療を受けたこともありましたね。今の時代であんなことがあったら大問題でしょうね。

一同 (笑う)

 さようなら、ねずみ島
吉田 それでは、ねずみ島がとうとう閉鎖に至ったことに関してどなたかお話いただけますか。


山田要
山田 戦後、進駐軍も去り、世の中も少しずつ落ち着きを取り戻し、日本の造船界も活気づいてきて、もちろん三菱長崎造船所も受注が増えると共に、大型タンカ―の建造時代へと移り変ってきたのです。そこで大きな鋼材の置場が必要となり場所を確保せざるを得なかったんです。昭和40年代頃に第二次長崎外港計画というのが持ち上がって、港湾行政の―端に携わっていた関係上ですね、どうしても埋め立てをしなくちゃならないということでねずみ島付近が選ばれたわけです。長崎の一翼を担う造船を発展させる方向にもっていくということで、残念ながら私もねずみ島を閉鎖せざるを得なかったんです。

田中 長崎の基幹産業である造船業が世界的な規模になって発展するということは、市民として大変うれしい面はありますが、深堀と香焼島との埋め立てが始まって、ねずみ島の水の透明度が落ちてまいりまして水の状態を心配したものです。70年間ねずみ島で育ってきた私共といたしましては、断腸の思いで別れざるをえなかったんです。


井上寿恵男
井上 急にねずみ島付近を工業団地にするということで、代替地をどこにするか早急に決めなければいかんということで、游泳協会の田中さんとあちこち歩き回って折衝したものです。
 当時は高中体連もなく、唯―の体育施設であったねずみ島を閉鎖するということは耐えられなかったですね。そこで場所をどこにするかということで建築法等の種々の問題があったけれども、松山に市営の総合プールをなんとか建てることが出来ました。全市内の子供達の共有した一大体育施設であったねずみ島がなくなるという事は、現在の施設の充実からみても今の状況とは違った意味があったんですよ。当時の子供達は夏休みになると待っているわけですから、―日も早くという状況の中で市営の総合プールを造らないと行けないと思いました。
 プールに道場が移ってから長崎市の教育委員会の委託を受けるということになったわけですが、当時代替という意味でも私の個人的な気持ちといたしましては、この市民総合プールは游泳協会に提供したつもりなんですよ、本当に。


舛谷晴雄
舛谷 ねずみ島を閉鎖するということで―日も早くプールを造れ、ということになりまして、他の県の状況を視察してまわりました。それと、松山地区の他の体育協会との折衝にも苦労しましたが、なんとか皆さんの協力を得たものでした。

田中 その当時は色々苦労いたしましたが、皆さんのご尽力のおかげで今日に至っております。

 「海から陸へ」伝統は守られた
吉田 島からプールへと移り、プールも協会も20年経過したわけですが、20年を振り返ってみていかがですか。


唐津勝彦
唐津 そうですね。ねずみ島時代は協会自体の主催でやっていたのがプールに移ってからは、市の教育委員会の委託を受けて子供達を指導するという風に大きく変ったわけですけど、そのこと自体については私共としてはあまり実感しなかったですね。井上先生からねずみ島時代のそのままの方式で指導してくれということで、私共は非常に嬉しかったですね。プールでもやれないことはないと強く確信しました。

田中 今の夏期水泳教室ですが、当初市教委では1000名程度で始めたらとの考えでしたが、ねずみ島では約3000名の子供を毎日指導していたので、プールの面積、つまり広さがあれば協会としては、3000名でもよいですと申し上げたのでした。ところが、驚いたことに申し込みが6000名以上もあり、検討した結果、一人の子供でもたくさん教室に入れてあげたいとのことで、抽選によってA班、B班に分け、隔日制で指導することになったのでした。プールは、今でも狭いことに変りはないのですが・・・。

吉田 水泳指導のあり方がプールに移ってから随分変ってきたようですが。

田中 ねずみ島時代には、第一に水泳を指導する前に子供達の保護ですね。子供達の安全を守るために相当の労力を使いました。プールの場合は海よりも比較的安全性が高いということで、子供を保護するという意味では、その点随分楽になりましたね。

唐津 ねずみ島では弁当を持ってきて、子供達は―日中泳いでました。だから自然に泳ぎを身に付けていったといえるでしょうね。プールでは限られた時間を有効に使って、いかに指導するかというのが大変ですね。それと日本泳法の小堀流だけでなく文部省の標準泳法も取り入れたということですね。それとねずみ島時代もそうだったわけですが、体み時間と練習時間が非常に厳格に守られていて、これが無事故につながっていると思いますよ。

 協会の創立精神は生き続ける
吉田 今後游泳協会が100周年に向かってどうあるべきかお聞かせ下さい。

田中 現在の施設での指導を踏まえながら。海での訓練も行っていきたいと思います。そこで海の道場も持ちたいと思っております。
 現在、千々石海永浴場から小浜町までの8キロを小中学生に泳がぜる「橘湾遠泳」を毎年行っているんですが、遠泳は精神的に子供を成長させますね。なぜなら、自分は出来ないんじゃないかと誰しも最初は思うわけですが、―端泳ぎきるとそれが白分自身に「やればできるんだ」といぅ大きな自信を持つことが出来るということですね。

舛谷 そう、それが子供にとっては、かけがえのないもになるんですよね。

唐津 それと、現在の若い指導者の先生方も海に慣れていないということで、まず指導者を育成することも大切な事ですね。塩の味を憶えるとでもいいましょうか・・・。丁組丙組はまずプールで、乙組以上は海での訓練をおこなっていきたいと思います。

井上 そう、それと現在の体育は選手だけのための競技になでている。勝ち負けも大切だけれども、全員が参加出来るものが本当の意味でのスポーツではないでしょうか。最近は少年の非行が特に問題になっていますが、ねずみ島のような指導が大きな役割を果たすのではないかと私は思います。

熊井 そうですね。学校の教育とは別に、子供達を逞しい子に育てる為にも游泳協会は独自の伝統を生かして、今後も導いたほうがよいのではないでしょうか。


吉田孝穂
田中 これからも游泳協会は、ねずみ島の伝統をを守り、先師達が残した貴重な遺産を生かして地域の振興と青少年の育成をめざしていきたいと思います。

吉田 私達は、使命とはいえ、これからも小堀流の游泳指導を忠実に守り通して、後世に受け継がなければならないという責任をあらためて痛感いたしました。語り尽くせませんが、この辺で座談会を終らせて頂きたいと思います。本日はお忙しい中、誠に有難うございました。