明治四十一年(1908年)

七月八日
●瓊浦游泳協会
は例年の如く愈々(いよいよ)(きた)る十一日より鼠島に於て游泳を開始する(はず)なり。事務所は大村町商人集会所に設けあり。万事は(つい)て*承合(しょうごう)すべし。
承合 問い合わせる。

八月一日
●武徳会柔道部夏稽古
*武徳会(ぶとくかい)長崎支部柔道部にては斯道(しどう)奨励の()め本日より夏稽古を開始し、市内各道場の教師諸氏及び游泳協会の(へい)に応じ熊本より来崎(らいき)中なる町野氏()も出席し熱心に教授する(よし)にて、各学生()は夏期休暇中を(さいわ)(いず)れも(その)鉄腕を(きた)い上げんと意気込み(すこぶ)る盛んなりと()えば、(さだ)めし盛況を(てい)するなるべし。(なお)近々(きんきん)講道館三段轟祥三(とどろきしょうぞう)氏も郷里大分県より(きた)りて斯道の為め(おおい)に尽力せらるゝ(はず)なり。稽古時間は毎朝七時より九時までなり。
武徳会 各種武道の奨励と国民の士気向上を目的とした財団法人「大日本武徳会」のこと。この記事から町野師範は柔道の心得もあったことがわかる。

八月八日
●九州競泳大会
瓊浦游泳協会の発企(ほっき)にて(きた)廿(二十)三日の日曜を()し鼠島に於て九州競泳大会を開催する(よし)なるが、一等金時計以下十等まで夫々(それぞれ)の賞品ありとの事なれば(さだ)めし壮観なるべし。

八月二十日
●游泳会招待会
瓊浦游泳協会にては、本日午後一時大波止出帆(しゅっぱん)の特別船にて当市の紳士紳商(しんしょう)六百余名を鼠島の会場に招待し、会員の競技二十余種を看覧(かんらん)(きょう)する(よし)

八月二十三日
●本日の競泳大会
瓊浦游泳協会の発企(ほっき)にかゝる九州競泳大会は、既報(きほう)の如く愈々(いよいよ)本日鼠島に於て挙行さるゝが、当日九州其他(そのた)より出場する選手(れん)(いず)れも一騎当千の強者(つわもの)(ぞろ)いなりと言えば、(さだ)めて非常の壮観を(てい)すべし。(こと)斯道(しどう)大家(たいか)を以て許されたる熊本の猿木師範は、態々(わざわざ)同大会に列席の為め門弟(もんてい)数名を同道し、昨朝(さくちょう)来崎(らいき)桜馬場春徳寺(しゅんとくじ)境内(けいだい)なる池田正誠氏方に投宿(とうしゅく)されしが、同師範は競泳終了後游泳を(こころ)(なお)会員一同に対し一場(いちじょう)の講話する(よし)

八月二十四日
●昨日の競泳大会
予報の如く、瓊浦游泳協会の主催に(かか)る九州競泳大会は、昨日午前十一時、熊本より来崎(らいき)せし猿木師範及び協会各師範監督の(もと)に丁組より順次競泳を開始して、班長助手()に及び実に目覚しき壮観を極めたり。(ちなみ)に当日は天気晴朗(せいろう)なりし為め、鼠島は*無慮(むりょ)二千余名の見物(けんぶつ)(もつ)(みた)し、近頃(まれ)に見る盛会なりき。(ちなみ)に当日長距離競泳を()せし受賞者の氏名等は、追て次号に(かか)( べ)し。
無慮 おおよそ。ざっと。

八月二十五日
●競泳大会受賞者
瓊浦游泳協会の主催にかゝる一昨日鼠島の九州競泳大会が非常の盛会を極めたる事は前号に報道せしが、今当日の壮観として期待せられたる二(マイル)競泳に(おい)て平素の手腕を(ふる)い見事一等の名誉を(にな)いしは八代(やつしろ)の藤本(ぼう)にして以下塚原喜代次(つかはらきよじ)(長崎)志摩三郎(しまさぶろう)(*五高)岡本栄次(おかもとえいじ)(長崎)山下五郎(やましたごろう)(久留米)萩原酒造夫(はぎはらみきお)(長崎)吉雄敬孝(よしおけいこう)(同上)朝倉健(あさくらけん)(同上)荘野純一(しようのじゆんいち)(同上)尼子熊一郎(あまこくまいちろう)(同上)島原重夫(しまはらしげお)(五高)の順序にして各賞品を受たる(よし)
五高 熊本の第五高等学校。

八月二十九日
●鼠島の游泳中止
別項の如く、*日郵筑前丸(ちくぜんまる)に疑似症虎列刺(コレラ)患者発生せる為め、港務部にては此際(このさい)鼠島、高鉾等に於ける游泳を危険と認め、中止すること()かるべしとの意味にて水上署に照会せしより同署にても()なりと同意し、(ただち)に瓊浦游泳協会に向け注意する処ありしかば、協会にても(その)()(りょう)して、本日より一時游泳を中止する事となれりとは、会員の遺憾の(ほど)(さっ)すべし。
日郵 日本郵船

九月二十日
●游泳協会運動会
瓊浦游泳協会にては、(きた)廿(二十)三日の秋季皇霊祭を期し、道の尾万象園に於て陸上大運動会を催す。最も雨天の節は廿七日の日曜に延期の由(よし)。