ねずみ島時代     海から陸へ
 長崎游泳協会の誕生
 長崎游泳協会は1902年(明治35年)8月、瓊浦游泳協会として設立されました。その主唱者は東洋日の出新聞社社長の 鈴木天眼、発起人には東洋日の出新聞社社員であった柔道家 西郷四郎も名を連ねています。 瓊浦は長崎の別称、「游」は水上に浮かび、「泳」は水中を行くという意味です。1913年(大正2年)瓊浦というのはわかりにくいということで、長崎游泳協会と改称されました。
 創立の翌年1903年(明治36年)ねずみ島での水泳指導が始まりました。 木札を持った正会員の1ヶ月の会費は、16歳以上は60銭、16歳未満は 40銭でしたが、反響は大きく、当初300名程度と予想していた正会員数は810名にもなりました。4年後の1907年(明治40年)には正会員数は2289名になっています。
 ねずみ島は道場に通う正会員だけでなく、一般市民の海水浴場としても利用されていました。一日限りの来場者を 準会員と呼んでいました。準会員は1日4銭(16歳以上は8銭)の会費を払い、ねずみ島で遊んだのでした。

 鼠島游泳道場

1962年(昭和37年)のねずみ島

2001年(平成13年)のねずみ島
 ねずみ島は長崎港外にあり、大波止から約4km、面積14,000m2の小島で、正式名称を 皇后島といいます。ねずみ島の名前にについては、江戸時代、深堀領であった頃、深堀の真北、すなわちの方角にあたるので、「子角島」と呼ばれたとか、ねずみが非常に多かったので「ねずみ島」と呼ばれた等の由来が「長崎名勝図絵」に記述されています。幕末には一時天領となり、外国艦船乗組員の休養地とされました。1890年(明治23年)の新聞に「鼠島海水浴場会社」の定式総集会が行われたという記事が見られるところから、長崎で最初の海水浴場であったと思われます。

 長崎游泳協会と小堀流

町野晋吉主任師範と生徒たち
 協会創立当時の協会では、主任師範が水府流太田派の達人宇田川五郎、師範には神傳流の池田正誠というように、決まった流儀はありませんでしたが、二代主任師範として熊本から小堀流の吉田荘太郎を招き、その後も町野晋吉(三代)、佐々亮雄(四代)、加藤忠雄(五代)、と主任師範は熊本から招かれ、小堀流が協会の流儀として定着していきました。
 1909年(明治42年)第六代主任師範に田中直治が任命されます。ねずみ島育ちの初めての師範が誕生したのです。またこの年、現在まで続く甲・乙・丙・丁制が確立しました。

 有明海横断遠泳

第一回有明海横断遠泳隊のメンバー
 1914年(大正3年)8月16日、熊本の小堀流踏水術稽古場が主催して第1回の有明海横断遠泳が行われました。距離は島原の猛島海岸から熊本の長州港までの20哩でした。協会は熊本隊とは別にこの横断に挑戦しましたが、長州港を目前にしながら、9時間半にも及んだこの遠泳に熊本隊と同様、失敗しました。
 1916年(大正3年)、協会は再びこの遠泳に挑戦、今回は協会単独行動で、コースも長洲から島原と改められました。参加者は12名で、途中4名が脱落しましたが、トップは6時間5分の遠泳の末、午後2時20分に横断に成功。午後4時10分には残り全員が島原に到着しました。なお、1964年(昭和39年)にも、第3回の遠泳に成功(男子34名、女子9名)、集団による長距離遠泳として大きな話題になりました。

 大名行列
 大名行列は、江戸時代、細川藩の参勤交代の行列が大井川を渡る有様を再現したものです。この大名行列は、1911年(明治44年)の競泳大会で男子部の余興として披露されたのがその起こりで、最初は大名の輿のみであったといわれています。それが行事化したのは、1913年(大正2年)頃からで、その後次第に道具持ち、供廻りなども形を整えていきました。大名と姫様を乗せた輿を中心に、露払い、騎馬、大鳥毛、小鳥毛、鋏箱などの供廻りや道具持ちに入れ墨姿の雲助など、総勢200名にも及ぶ道中絵巻は、ねずみ島の名物の一つで、長崎の夏の風物詩でした。

 長崎游泳協会と競泳

日独対抗戦
 長崎游泳協会は競泳界をもリードする存在でした。1908年(明治41年)には第一回の九州競泳大会を開催しています。また翌1909年(明治42年)には長崎港に入港中のドイツ艦隊の代表選手と日独対抗競泳を挙行し、完勝しています。その後も極東オリンピックへの選手派遣など、積極的に競泳に取り組んでいました。1921年(大正10年)の日誌に「クロール班の練習をなす」との記述があり、協会の中に最新の泳法であるクロールを研究するグループがあったことがわかります。
 当時の競泳大会はかなりの距離を泳ぐ種目がありました。1927年(昭和2年)には十哩競泳大会という完泳するすら困難と思われる大会を実施しています。これは、近年盛んになってきており、北京オリンピックから正式種目となるオープン・ウォーター・スイミングの先駆けと言えるでしょう。

 教師派遣
 創立当時は外部から師範を招聘していた協会ですが、遠泳や各種競泳大会によって協会の名が広く知られるにつれ、教師を派遣する側にまわります。古くは1921年(大正11年)に派遣の記録が残っています。矢上、時津、島原といった県内各地だけでなく、福岡の百道海岸にも派遣しています。
 1931年(昭和6年)には学習院に藤山綱雄を派遣。その後も1935年(昭和10年)には田中直一、熊井定男、中島行義、1936年(昭和11年)には熊井定男、寺元忠雄、村尾嘉吉郎、1939年(昭和14年)には堤一仁、細井勇、川平敏、高島孝明、山中義治、1941年(昭和16年)は、堤一仁、唐津勝也、石橋康雄、三島敏夫、井村泰雄 、をそれぞれ派遣している。

 ねずみ島閉鎖
 1937年(昭和12年)の日中戦争開戦、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦と戦域が拡がるにつれ、協会の役員や教師も次々に出征していきました。そうした時局にあっても1942年(昭和17年)の会期は7月26日の開会式から8月30日の閉会式まで滞りなく行われました。しかし、翌1943年(昭和18年)には国民皆泳は強化され、7月は市内国民学校の游泳指導者の訓練、女子中等学校生4千名、国民学校四年生以上の游泳訓練に終始し、協会のねずみ島開場は8月1日となりました。游泳開始前には、丁組一班の熊井嘉明、田中忠義が式台に立ち「弾丸で死ぬとも溺れて死ぬな、鍛え海の子、日の本の子」と音頭をとり、丁組全員が唱和しました。また、この年から壮丁訓練が始まりました。時局が時局だけに教えるものも教わるものも真剣そのものであったそうです。
 翌1944年(昭和19年)ねずみ島は壮丁訓練を除き、一般には閉ざされました。

 さようならねずみ島

最後の挨拶をする田中直一主任師範
 1947年(昭和22年)田中直治主任師範が「平和」の大水書を披露し、ねずみ島は再開されました。ねずみ島の父と慕われた田中直治主任師範は、翌1948年この世を去り、実弟の田中仙之助が主任師範となりました。この頃の会費は小学生が200円、中高生(新制)が300円でした。1950年(昭和25年)には文部省の標準泳法である蛙足を採用、以後この泳法による指導も行うようになります。
 昭和40年代になると、長崎市の基幹産業である造船業の発展とともに、大規模な資材置き場が必要となり、第二次長崎外港計画が策定され、ねずみ島周辺も埋め立てられることになります。当時は学校のプールもほとんど整備されておらず、唯一の体育施設であったねずみ島が閉鎖になるということで、行政も代替地を用意すべく奔走し、松山地区に市営の総合プールを作ることになります。
 1972年(昭和47年)が、ねずみ島最後の年となりました。会期終了後の9月3日「さようならネズミ島」の式典が行われ、鼠島游泳道場70年の歴史に幕が降ろされました。

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