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踏水術は「術」であってそれ自体が目的であると書きました。
これについて補足しておきます。
我が子に剣道(居合を含めて)を学ばせている親にその目的を尋ねるなら、
強い体を作るため、精神力を鍛えるため、などの答えが返ってくるでしょう。
間違っても「人を斬る術を身につけるため」とは言わない。
なぜなら現代の日本で人を斬る機会はないからです。
それに対して踏水術を学ぶ目的は「踏水術を身につけるため」が成立します。
というかそれこそが第一の目的であるべきです。
もちろん稽古を続けることで単に「術」を身につけるだけでなく、
その先にある何か有益な観念に到達することもあるでしょう。
ただ、最初からそれが目的である必然性はない。
踏水術はそれ自体が目的である、とはこういう意味です。
では、踏水術の目的は何でしょうか。
言い換えるなら、踏水術は何のための術なのか。
それを考えたとき、小堀流踏水術の游の種類の少なさが目に付きます。
浅瀬を下る時は足撃、
ある程度の距離を移動したい時は手繰游、
流れのあるようなところを一気に渡る時は早抜游、
水中で作業をしたいときは立游、
基本これだけです。
他流派だと平泳系と抜手系それぞれに複数の泳ぎがあったり、
また横体に複数の泳ぎがあったりします。
踏水術は実にあっさりしています。
一つのシチュエーションに一つの游。
「それで十分ではないですか」と小堀長順の声が聞こえてきそうです。
その一方で、デモンストレーション系の游はたくさんあります。
水書、水剣、梨剥などなど、際限なく可能です。
踏水術をもってすれば「立ってできることは游ぎながらできる」からです。
こうしてみると、小堀流踏水術の目的は
「何かの目的のために游ぐ」ことなんですね。
游ぐことよりも游ぐことで達成される何かが重視される。
例えていうなら車の運転と同じ。
たくさん荷物を運びたければトラックを使え。
移動するだけなら普通車でいい。
悪路を移動するなら4WDでしょ。
みたいな感じです。
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